幸せな不倫
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以前書いた「幸せな不倫」は沢山の反響がありました。
いかに不倫の恋に悩んでおられる方が多いか、改めて痛感させられます。
先に触れたように、鑑定においても不倫の恋のご相談は圧倒的に多いのが実情です。
そこで今回第二弾として、前回取り上げたパターンに次いでよく見受けられる、不倫の恋を苦しいものにしがちな他の要因について取り上げてみることにしました。
一部内容的に重複する箇所も出るかもしれませんがご容赦下さい。
さて、では改めて、「不倫の恋を苦しいものにしがちな要因」って他にどんなものがあるのでしょう。
『君の背に 君の暮らしを透かし見て 見送る我の月影哀し…』
どんなに2人の時が幸せで、そこに2人だけの甘い世界があっても、シンデレラの12時の鐘のように、時が来れば幸せな時間の魔法は溶けて、愛しい人は家族の待つ場所へ帰ってしまう…
そして、恋しさと淋しさにじっと耐え忍ぶ孤独な時間がやってきます。
その時間がつらければつらいほど、孤独であればあるほど、苦しみに押しつぶされるがあまりに、なぜ私だけがこんな思いをしなければならないのか、なぜ私だけが1人ぼっちなのか、という思いがよぎってしまうものです。
私はこんなに苦しんでるのに、彼は今頃家族団欒で楽しくやっている…
そんな不公平感が積み重なり、腹立たしさやいらだちとなって湧き上がって来てもしまい、余計に我が身を苦しめてしまいます。
家庭をうまく守りながら、自分との仲も両立させようとしている彼がズルく思えてくるのです。
恋の始まりの頃は、仕方ないんだと納得しているつもりでいるし、私はちゃんと彼の状況も理解してあげられると思ってもいるけど、関係が深くなるにつれ、想いが強くなるにつれ、多くの人がそうじゃなくなっていくのです。割り切れなくなってしまうのです。
このように苦しみがいつも背中合わせの不倫の恋の中にいる方は少なくありません。
実はこの苦しみを生んでしまう要因の一例として、根底に「淋しさ」がある場合があるのです。
そこには大きく2つの淋しさがあります。
一つは、求めても得られない不倫の関係ゆえの満たされない淋しさ。
もう一つは、自分自身が本来抱えて持っている淋しさです。
どちらか一つの場合もあるものの大概は、もしかしたら本人も気付いていない「自分自身が本来抱えている淋しさ」が実は心か魂の根底にあって、それが現実的に相手を乞い求める激しい渇きにも似た想いになり、でも求めても得られない淋しさに拍車をかけてしまっていたりもするのです。
つまり二つの淋しさの要素が複雑に相まって絡み合っている場合が多いということです。
勿論、重ねがさね一口に不倫といえども、実際は愛し合う男女の数だけ色んな愛の形があるものですから、全ての人に当てはまる訳ではありませんし、何も不倫の関係だけに限ったことでもありませんが、概して不倫の恋のご相談においては、根底でこのご本人の「淋しさ」が恋を苦しいものにしている場合がとても多いように思われます。
そしてさらに、その淋しさによって陥りやすい例として、3つのパターンが多く見受けられます。
一つ目が、自分の目の前にある、自分に向けられるわかりやすい好意を愛と勘違いしてしまうこと。
二つ目が、相手への依存、執着。
三つ目が、相手の都合に常に左右されるようになり、特に自分が独り身である場合においては自分の人生、自分の未来を相手の選択に委ねなければならなくなることです。
つまり自分の未来なのに自分で決めていくことが出来ない。相手に自分の人生の選択の主導権を握られている状況です。
そしてこれらもまた、それぞれ単独の場合もあるものの、3つのパターンが総合的かつ複雑に絡み合い、一連の流れとして繋がった状態になっている例が圧倒的多くの人に見受けられます。
例えば一つ目の『自分の目の前にある、自分に向けられるわかりやすい好意を愛と勘違いしてしまう』場合…
人は心が弱っている時や誰かにすがりたい時、また自分自身が本来抱え持っている淋しさがある場合に、心にふと分け入ってくる人を好きになってしまうことがあります。
そしてそんな時は「この人は縁のある人に違いない」「この人こそが運命の人」と錯覚もしがちです。
なぜなら、淋しさという弱さが時に心の目を曇らせてしまい、本当は貴女をモノにして都合のいい関係になるのを望んで近付いて来ただけの相手なのに、真実を見抜けなくさせてしまうことがあるからです。
渇いたスポンジが一気に水を吸い込むように、救いを求める自分の奥にある淋しさが、相手からの好意を自分の内に一気に染み込ませてしまうため、それが俗に言う「ビビっと来た」的な感覚を本人に与えてしまうのかもしれません。
まるで恋のキューピットに愛の矢を打たれたみたいで、劇的でロマンチックな気にさせてしまう訳です。
そして、「これはきっと魂が出会いを待ちわびていた運命の赤い糸で結ばれた相手に違いない」と思い込んでしまったり、そうであることを期待してしまうのです。
結婚している人なのに…好きになったら苦しくなる関係かもしれないのに…、なのにまるで何か見えない力に引き寄せられるように強く惹かれていく自分への戸惑いと、妻子ある人を好きになることへの潜在的な罪悪感から、「この人は過去世から未来の出会いが約束された運命の人に違いない」と自らを納得させようとする無意識の感情がある場合も中にはあるかもしれません…
このような淋しさゆえの弱さから、都合のいい関係を求める相手との出会いを運命と思い込み、結果自ら苦しい恋に身を投じてしまっている方も哀しいかな、一つ目のパターンとして、少なからずおられます。
しかし確かに錯覚や思い込みなどではなく、実際に過去世からの魂の繋がりのある相手であることも勿論、またそれゆえに磁石のように引き合うことも当然ながらあります。
前回もお話ししたように、むしろ実際にはとても多いものです。一番多いパターンと言っていいでしょう。
過去世で生じた何らかの心残りややり直しのために出会うべくして出会っている場合も決して少なくはないのです。
また、今世で初めて出会った場合であっても、意味あって出会っていたりすることだってあります。
人はその時の自分にとって必要な出来事や存在を引き寄せることがあり、それは学びのためであったり、救いのためであったり様々ですが、そこで過去世からの繋がりのある人と出会う場合もあれば、今世で初めて出会う人を引き寄せることもあります。
そして必ずしも過去世の繋がりだけを縁というのではなく、たとえ今世初めて結ぶ縁であっても、それはその時本人が必要としたから導かれたものであるかもしれず、それだってある意味立派な赤い糸だったりもするものです。
そういう意味では、過去世からのご縁であれ今世で初めて結んだご縁であれ、誰との出会いであっても、その全てが「運命の人」になるのかもしれませんが、それが必ずしも自分が期待する「自分を幸せにしてくれる運命の人」とは限らないのです。
口先だけで愛を囁いている人もいれば、2人きりの時間の中でだけの愛と割り切って、どんなにそこで濃密な愛を交わしても、一歩そこから出ると「家族と自分が一番」の普段の自分に戻っていく人だって居るのです。
そんな相手であっても、それも何らかの学びと言ってしまえばそれまでですが、本当に今の自分にとって必要な学びであるならまだしも、都合のいい遊び相手を求めているだけの相手を「この人は運命の人」と思い込み、まるで呪縛のようにあえて自らを苦しみの中に縛り付けてしまうことが、必ずしも必要な学びとは限らないのです。
どんなご縁であったにしろ、すべての出会いを苦しい関係ではなく、良い関係にして学びにしていく選択だって本当は自分次第で出来るものなのですから。
でもそこに自らが抱える淋しさや満たされない渇きがあると、その淋しさ=弱さゆえ、相手との関係に救いを求めるようになり、やがて自分でも気付かぬうちに依存や執着が大きくなっていってしまうのです。
これが二つ目のパターンです。
「彼がいないとダメ」というのは「恋」が「救い」「依存」になってしまっているから、自分にとって彼しか居ないような気持ちになってしまうのです。
会っている時は幸せでも、会えない時に不安になるのもそうです。
だから別れも決断出来ない…
彼が居なくなったら自分には何も残らない、からっぽになってしまう気がしてしまうのです。
それはまるで「彼じゃなかったらダメ」という呪縛の捕らわれの身のようなものです。
本人からすると、そこから抜け出すには別れしか無く、自分の人生の選択は、別れて支えも救いも全て失うか、自分の人生の主導権を相手に明け渡し、ただ耐え忍びながら待ち続けるかしか無くなるのです。
でもどちらを選んでもそこにあるのは苦しみです。だからどうすればよいのかわからぬまま、苦しみのスパイラルの中に呑み込まれていってしまうのです。
それが三つ目のパターン、ただ相手が決断してくれるのを待つしかないという、相手に自分の人生の選択の主導権を委ねねばならなくなる状況です。
このように、淋しさという弱さゆえ、目の前にあるわかりやすい好意を愛と思いこんでしまったり、相手への依存や執着を生んでしまったり、自分の人生・自分の未来なのに自分では決められない…決めたくても相手の都合によって自分の未来が左右されてしまうという、身動きのとれない苦しい状態になってしまう方達が、哀しいかな不倫の恋においての一例としては少なくはないのです…
でも本当は誰しもが幸せな恋愛を選択する権利があるのです。
例えそこに何らかの学びがあるのだとしても、あえて苦しみに身を投じずとも、相手を愛する幸せを得ることも出来るはずなのです。
そう。苦しい恋も、自分の意識次第で幸せな関係に変えることも出来るのです。
そのためにも、本当に自分を愛してくれる人は誰なのか、本当の愛って何なのか、また自分が求めているものが何なのかをしっかり心の目で見てほしいのです。
貴女が望む幸せは他者からしか与えてもらえないものでは決してないのです。
貴女自身が自分の手で得ていけるものなのです。
まずはご自身の心の目を開くつもりで自らを見つめてみて下さい。
もしかしたら貴女の内に、貴女も気付いていなかった心の渇きや満たされない淋しさが隠れてはいませんか?
もしかしたらご自身が本当に望む未来を他者の選択に委ねてはいませんか?
もしかしたら彼しか居ないという呪縛の中に自分を閉じ込めてしまっていませんか?
苦しみから自分を解放するには、その苦しみを生んでいる真の原因にまず気付くことです。
気付くことによって、もう一歩を踏み出しているのです。
そして次に、「私にはこれがある」と言える事を見つけてほしいのです。
仕事でも趣味でもいい。日常のちょっとしたことでもいい。貴女自身をワクワクさせてくれる、貴女にとってのライフワークと言える何かです。
人は自分だけの夢中になれる何かを持っていると、強くなれるものです。心の置き場所が出来るからです。
極端な話、「私にはこれがあるから、男なんて居なくても全然平気」と笑って言えてしまえるくらい大好きな世界を持てると、誰かに依存したり救いを求める必要も無くなってしまうものです。
でも思いと裏腹に、自分の世界を持っている人は魅力的で、周りは放っておかなかったりする。
自分が楽しいと思う気持ちや行動がプラスのエネルギーを高め、人を惹きつけるからです。
そして出来るならば、それが貴女の魂がやりたいと思っていること、魂の意思にそぐうものであれば、なお良いのです。
「魂が真に望む生き方」に歩み出し始めると、その人本来の内なるエネルギーが燦然と強く光り輝きだすからです。
魂が望む生き方こそが自分を一番輝かせ、力を与えてもくれるのです。
そうすると面白いもので、恋愛も仕事も生活も未来も、自分を取り巻く全てが真の良い方向へ回りだすものです。
自分では良いと思っていても、実は本来すべき選択と違っていることに気付けていない場合も、真の自分にとっての一番の選択が出来るようにもなるでしょう。
また、依存や執着は時に、自分に自信を持てない心が生むこともありますが、自らの魂が真に望む生き方に歩み出せた時、自ずと失っていた自信も取り戻していけるものです。
なぜなら、言葉遊びのようになってしまいますが、「魂が真に望む生き方」とは言ってみれば、真の自分の本来の姿であり、自信とは真の自分を知ることでもあるからです…
人は物質界に生まれ肉体を纏った時から、肉体の意思に支配されるようになり、魂の意思が肉体の意思の奥深くに封じ込められてしまうため、物質界での日々にもまれているうちに、自らの魂の意思に気付けなくなってしまいます。
自分が何者で何をしにこの世界に来たのか、わからなくなってしまうのです。
それが心のどこかに不安や心細さや焦燥感を生み、生きていく中で心傷付く出来事を経験したりすることによって、時に自らの存在価値を見いだせなくなったり、自分に自信を持てなくさせてもしまうのです。
それは記憶喪失になって、自分がいったいどこの誰で何をして生きてきたのかも全くわからなくなってしまい、心細く不安でたまらない状態と同じようなものかもしれません。
でも、自分の真に望む生き方に気付けた時、それまで自分には何も無いと思っていた自分だけの役割や輝きにも気付けるものなのです。つまり「自分の真の本来の姿」にです。
また見えない力の導きも身近に感じられるようになるでしょう。
だって元々、神と呼ばれる絶対的愛のエネルギーから生まれた私達の魂。
魂は神の細胞でもあり分身でもあり化身でもあり子孫でもあり一部でもあるのだから、魂の真の意思は神と貴女を繋ぐもののはずですからね。
貴女をサポートしてくれている天の存在達つまり守護存在達も、魂の真の意思に添った生き方に貴女が歩み出した時には本当に喜んで、嬉々として更なるサポートに努めてくれることでしょう。
そうなることで貴女だけでなく、貴女のまわりにいる関わりのある人達にも良い影響がもたらされたりもするものです。
貴女が放つエネルギーと、それをサポートする天の力が相まって、貴女を取り巻く人達のエネルギーをも引き上げるからです。
そしてさらに、それが他者に愛を施すことであれば、それらは尚、顕著になります。
誰かに喜んでもらえること。誰かを笑顔にすること。誰かの救いになること。助けになること…
そういう仕事を選んでもいい。趣味でもいい。日々の小さな出来事の中ででもいいのです。愛を施す場は日々日常の至る所にあります。
魂達にとっての本当の喜びは愛されることよりも愛すること。他者に無償の慈愛を施すことこそが魂達にとっての一番の学びであり、神の愛に近付けることであり、何にも代え難く尊く幸福なことなのです。
ですから全ての存在の魂の内には、愛を与えたい欲求がDNAのように刻まれているのです。
つまり魂達が真に望む生き方とは、貴女の内にある世の中の全ての存在のために役に立ちたい、助けになりたい…その願いを自分らしく形にすることでもあるのです。
貴女のやり方で、私にはこれがあると言えることで、ワクワクと、自分が楽しめて幸せになれる方法で…
貴女が自らの魂が真に望む生き方に歩み出し、充実してやりがいを持てるようになった時、そんな自分を楽しめるようになった時、貴女の内にあった淋しさも、渇きも、きっといつしか癒やされていくことでしょう。
自分にとって本当に必要なものと、そうじゃないものも、心の目で見分けられるようにもなるでしょう。
執着や依存する必要ももはや無くなっていくことでしょう。
そして、その時が来たら、自分の内の執着が取れた状態で自分を見つめ直し、本当に自分がどうしたいのか、自分の心と向き合ってほしいのです。
それでも彼との関係を望むなら、苦しみが背中合わせの関係ではなく、互いに支え合い高めあえる関係を築くためにはどうすればいいのかを考えて、彼とのご縁を良い絆にしていってほしいのです。前回の「幸せな不倫」で書いたように…
どうか覚えておいて下さい。
精神的に自立した関係になることで、うまくいく恋もあります。
自立した関係になるというのは何もクールに割り切った「サバサバした」関係にということではありません。自立とは依存の反対です。
相手への依存があると、相手を乞い求める想いから、こうしてほしいのに、ああしてほしいのに、と自分の願望を相手に押し付けたり、相手からの愛を常に確かめていないと不安になり、少しでも不安が生じると苦しくて、相手を責めたり、相手を試すように本心ではない別れをちらつかせたりして、相手を追い詰めたり、わざわざ自ら関係を壊すようなことをしてしまったりしがちです。
前回も書いたように、ここにも自分でも気付いていない「相手に自分の望み通りになってほしい」という潜在的な欲が存在していたりするのです。それが思い通りにいかないから苦しみを生んでもしまうのです。
「相手を自分の欲に当てはめようとするか、相手の全てをそのまま丸ごと受け入れ愛するか」
それが不倫の恋を幸せな関係に出来るか否かの鍵だとも前回書きました。
真に依存から解放された時、相手の全てを受け入れ、認めることも出来るようになり、求める関係から、与える関係になることも出来るのではないでしょうか。
それこそが真の自立した関係であり、互いに支え合い高めあい、互いに愛を施しあえる幸せな関係なのではないかと思います。
だから貴女には、貴女自身を依存や執着から解放してあげて欲しいのです。
自分への自信を取り戻して欲しいのです。
貴女だけの輝きという財産を知って欲しいのです。
もう淋しさや孤独に苦しまないで下さい。
魂が真に望む生き方へ歩み出した時、きっとその時の貴女にはそれが出来るはずです。
しかし、自分にとっての「魂が真に望む生き方」を見つけることを望んでも、誰しもが簡単に見つけられる訳ではないかもしれません。
そんな方々のために、当ブログ内の『自分探し』というタイトルのメッセージ内でも見つけ方のヒントを詳しく書いていますので是非今一度目を通して参考にして頂けたらと思います。
それでも、「今ある苦しみの原因を知ること」、そして「自分にはこれがあると言える何かを見つけること」、この2つの鍵の答を自分ひとりでは見いだせない時は、どうかお気軽に鑑定をお申し出下さい。
どんなお悩みであれ、それを解決するにはまず、なぜ今この状況が起こっているのか、なぜこの出会いが導かれたのか、そこにどんな意味があるのか、その背景や理由を知ることなのです。
それがわかれば、今の状況がある訳も、自分が真に望んでいることも自ずと明らかになるものです。
しかし、時にそれは自分の力や努力だけでは中々難しいものです。出会いの理由の背景が過去世まで及ぶ場合も少なくないからです。
貴女が苦しみから解放されて、ご自身の輝きを取り戻すお手伝いをするために私はいます。
苦しい時はどうかお気軽にお声をかけて下さい。
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