時間を越えるもの
~死別の哀しみを抱く全ての人に捧ぐ~
天には時間の概念がないと言われます。
でも物質界で肉体を持って生きる我々には中々ピンとは来ないものです。
ある意味、この物質界は天とは対称的に、時間という概念の次元でもあるからでしょう。
言い換えれば、時間というシステムに否応なく縛られている世界なのです。
実際、そんな中に取り込まれて生きている我々の頭では、「時間の概念が無い」ということの理解は難しいようです。
それは、生身の肉体が「時間の概念」の中の産物であるがゆえなのかもしれません。
つまり肉体の頭脳における思考の基盤がこの物質界のシステムに則り構築されている、といったところでしょうか。
しかし、肉体の頭では理解しづらくても、魂は知っています。
けれど残念ながら、この物質界で生きるためには肉体を持たねばならず、魂の意識は肉体の意識に封じ込まれてしまいます。
それゆえ肉体の意識下に置かれてしまう…
肉体という物質をまとっている以上、結局は物質界のシステムこそが現実であり真理のように思うようになってしまうということです。
そんな我々を支配する時間ですが、時に残酷であったり優しかったり、良きにも悪きにも、私達の人生に様々な経験という彩りを与えています。
時間というものがあるがゆえの経験もある訳です。
その代表が老いていくことと死、そして忘却なのかもしれません。
肉体を筆頭に、この物質界に存在するものは時間の流れの中で段々朽ちていくという定めを背負っていますが、もし、時間というものが無ければ老化も死も無いのかもしれません。
でもそうじゃないから、私達はこの世界で、愛する存在達との死別を経験しなければならない…
それも魂の学びのためには仕方ないシステムなのかもしれませんが、この物質界の最大の不条理に思えてしまいます。
残酷で哀しい試練です。
愛する存在がこの世から突然居なくなる。
それまで目の前に存在する自分にとっての現実だったものが、その瞬間を境に現実ではなくなり過去になる。泣こうが叫ぼうが、もう戻らない。
そんなパニックのような狂うばかりの哀しみの後には、静かに深く深く染み入るような哀しみがやってくる。
それもさることながら、愛する存在が時の流れと共に遠い思い出になっていってしまうのも、とてもつらい哀しみです。
どんなつらい経験や哀しみも時が癒やしてくれると言います。
確かにそんな優しい側面もあります。時がもたらす忘却です。
けれど、この世を去った愛する存在のことだけは、この忘却も残酷なのです。
一挙手一投足、仕草のすべても、愛しい声も、共に生きた日々の記憶も、何一つ忘れたくない。ひとつ残らず全てを鮮明に心に刻み残していたいのに、思いと裏腹に、時の流れと共に段々手の届かない過去へと遠ざかり、少しずつ時の向こうに薄れていく…
遺された者にはそれがつらいのです。
でも私達は愛した記憶と失った哀しみを抱きしめて、それでも今と未来を生きていかねばなりません。
やがて、亡くした者よりも、今、共に生きる者に目を向けなければならないようにもなるでしょう。
そしていつの日か、目の前の存在が亡き存在を超えるようにもなるでしょう。
私達は時の中に立ち止まることが出来ないから、どんなに残酷であっても、去っていく時を手放して、進み続ける時の流れに身を置くしかないのです。
だから忘却も、今を生きる上では必要なものであることに違いありません。
忘却は残酷でもあり、優しくもあるのです。
私達はそれをわかっている。
それが仕方ないことだとも、わかっている。
でもどこかで、時の流れに身を置く我が身に、後ろめたさに似たような思いも持っている。
こうして遠い昔になって薄れていくことを、亡き存在は淋しく思っていないだろうか、と。
またあるいは、こんなに時が経ってしまったから、もう私のことは忘れてしまっているのではないか、とも。
でもね、安心して下さい。
それは時間の概念の中に私達がいるがゆえに思うこと。
天は違うのです。
亡き存在達はよく言います。またすぐ逢えるからと。
それは気休めではない。
時は埋まるのです。
私達にとって、それがどんなに、とてつもなく長いものであっても。
それは私達の魂も知っていて、肉体の内にあっても、無意識の感覚として、時に私達は感じ得ていることもあるのです。
例えば、良いところも悪いところも知り得た幼なじみと、大人になって遠く離れ、別々の道を歩いていても、何かの機会で再会した時には、今まで離れていた距離も時間も一瞬に消えて、まるで昨日、「じゃあまた明日」と別れて、翌日会ったかのごとくの感覚になることがありませんか?
時間の空白が一瞬で埋まるあの感覚です。
いつの日か、あなたにもこの世を去る時が訪れ、愛しい亡き存在と天で再会した時も、それと同じなのです。おやすみを言って、翌朝目覚めて、おはようを言うかのごとくに…
天にもおだやかな時の流れはあります。けれど超越するのです。それは愛する存在が人であれ動物であれ同じで、愛が時を埋めるのです。時をも超えるのです。
その時、きっと、あなたの内にある、生前の長い長い時も、その中で抱え続けてきた哀しみも、一瞬で幻となる…夢を見ていたかのように。
そう。実際はほんの数時間しか眠っていないのに、一生分の体験をする夢を見ていたかのように。
もしあなたが生前、過ぎ去った過去の哀しみに永きに渡り捕らわれて、生涯を過ごしてきたのだとしたら、その時あなたは思うでしょう。
なんだ。こんなことなら、もっと人生を楽しめば良かった、と。
目の前の今をもっと存分に生きれば良かった、と。
それは例えば、こんなふうな感覚かもしれない。
あなたは長年夢に見て楽しみにしてきた海外への旅行に行けることになった。
でも嬉しいはずの旅が、預けてきた犬猫が気になって仕方ない。
ちゃんとお世話してもらっているだろうか。不安に思っていないだろうか。慣れない環境にストレスを感じて体調崩しやしないだろうかと心配で、せっかくの旅行を心から存分に楽しめない。
挙げ句、早く帰ってあげたいとばかり思ってしまう。
でも無事に帰ってきて、急いで犬猫を迎えに行ったら、彼らはすこぶる元気で、預かってもらっている間もそれなりに楽しく過ごしてくれていたとわかって、心配が杞憂だったことに安堵する。
でもそうなると、「ああ、なんだ心配して損したわ。」と苦笑しながら、「こんなことなら、せっかくの旅行、もっと楽しめば良かったわ」とちょっぴり後悔する。後から、あそこも行けば良かった。せっかくだからあれもしとけば良かった、と心残りが湧いてくる。
…どうですか?
そんな経験はありませんか?
このように、何かに心捕らわれてしまうと、今この時に目が行かないことがあります。
人生もそれと同じで、過去を手放すことが出来ず、まるで過去の中だけで生きているかのように人生を過ごしてしまうと、今や未来に待っているかもしれない、また違った素敵な体験や、新たな幸せにも気付けないかもしれないのです。
本来この物質界に生まれた魂の目的すら果たせず終わってしまうかもしれません。
死別の場合だって、亡くした者への思慕は確かにいつまでも消えるものではないし、無理に思慕を消し去る必要もない。けれど、だからといって、その哀しみの中に留まり続けることを選ぶことは、亡き存在達も望みません。
なぜなら亡き存在達は、天に帰ればもう、天の存在に戻り、全てを理解し、物質界に居る私達より遥かに神の意識に近くなっているから、物質界での別れが永遠の別れではないことも、時間を埋めてすぐまた逢えることも、すでにちゃんとわかっているからです。
なのに遺された者が、「留まることが、亡き存在への愛だ」と自らに言い聞かせ、どんな時も、ひとときも欠かさず、そしてこれからの未来も、ただ亡き存在を想いながら哀しみの中だけで生きていたら、亡き存在達は心配でなりません。自身のためにも亡き存在のためにも、決して望ましくないことなのです。
例え、時の中で、亡き存在の記憶や彼らへの想いが薄れていっても、それは薄情なのではない。愛が消えた訳でもない。自分を責めなくても良いのです。
この「時間の概念の世界」の摂理の元に産み出された肉体の脳の、「時の経過と共に記憶が薄れる」という構造上の問題に過ぎないのです。
愛は実際には決して薄れてやいない。
愛というエネルギーの実体は時が経過しようと何も変わらない。
真の愛の絆は永遠なのです。時の流れをも超えるのです。
何ものもこの絆を薄めることも弱めることも、ましてや消し去ることなど、決して出来ないものなのです。
亡き愛しい存在には天で必ず、また逢える。
その時には、今までの孤独も淋しさも、一瞬で埋まる。
だから安心して、大船に乗ったつもりで、せっかく与えられた人生の日々という、かけがえない時間を楽しんで欲しいのです。
振り返れば人生は短い。だから限られたその時間の中で、たくさんのものを得て欲しいのです。
それが天や亡き存在達の思いでもあるのです。
確かに、この世の死別というシステムは残酷です。
けれど天は決して残酷ではない。
この物質界で様々な体験をするため、冒険と学びの旅に出る私達を、果敢に挑む者達よと讃え、旅を終えた時には私達を優しく包み迎え入れる。そしてねぎらう。
死によって引き裂かれた哀しみをも、ちゃんと埋められるようにしてくれているのですから。
けれど問題なのは、本人が自らの魂に傷を残してしまうことです。
ご承知のように私達はこの物質界に様々な体験を通して魂の愛の学びを得るために生まれ来ます。
体験によって生じた感情や感覚は魂にインプットされていきますが、強い哀しみなどのマイナスの感情は魂に傷を残してしまうことがあるのです。
それは魂における「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」や「心的外傷(トラウマ)」のようなもので、その生の内に解消出来れば良いけれど、解消されないまま次の生にも、あるいは何代先にも渡り、癒されぬままに持ち越してしまうこともあり、その傷が未来の生にも影を落としてしまう…
現にそんな過去生で生じた魂の傷を抱えるご相談者も少なくありません。
死別の哀しみは本来は天で亡き存在に再会したら解消する…
でも生きている内に、哀しみの情をあまりに強いマイナスの念にしてしまって魂に刻みつけてしまうと、PTSDのように問題が解決しても後々まで魂の傷として残り続ける…
だからこそ、天は哀しみの傷ではなく、その哀しみを愛に昇華させて愛の喜びや尊さ、命への慈しみとして魂に刻んでほしいのです。
すべてを、そう、この世でのあらゆるすべての経験も、「愛した誇り」にしてほしいのです。
それには時間も必要な場合もあるでしょう。
だからこそ、そのために、時もまたきっと、この世界に存在しているのではないでしょうか。
失った哀しみも、魂の傷も、そして長い孤独の時間も…、それらを超えるもの、それはやっぱり、ただ、ただ、愛なのです。
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